御仕法

 

御仕法とは

相馬中村藩では、天明・天保のききんで農村が疲へいし、藩財政が窮ぼうしました。そこで、農村を立て直し、藩財政を再建するために、二宮尊徳の教えに基づく「興国安民法」を導入しました。
「興国安民法」は 、一般には「二宮仕法」あるいは「報徳仕法」などといわれ、相馬では「御仕法」といわれています。

御仕法は、至誠・勤労・分度・推譲を原理とします。このうち、分度とは、各自にふさわしい支出の限度を定めることです。推譲とは、将来にそなえること。また他人のために収入の一部を譲ることをいいます。つまり農民生活の安定のため、質素倹約と備荒貯蓄を目的としています。

御仕法の実施にあたっては、村民たちの投票により働き者を表彰して、お金や鎌・鍬などの農具を与えることにより、農業への意欲を高めるとともに、困窮者の救済、家の修理、新築への助成などを行ないました。さらに、堤・用水路の普請・修理も行われました。

御仕法の導入

中村藩は、元禄・正徳・享保の盛時には最高17万5千俵余の米の収納があり、人口も約9万人に達しましたが、天明の飢饉後は、2万40俵、約3万6千人に激減しました。このため、藩では天明4年(1784)に幕府から5千両を借り入れ養育料の支給や、移民を引き入れることなどで回復に努めましたが、借金は30万両を越えてしまいました。

こうしたことから、文化14年(1817)より厳しい倹約令(いわゆる「文化の御厳法」)を出し、6万石の格式を1万石に切り詰めるなどの政策も実施しました。その後天保4年(1833)に大きな飢饉がおこり、餓死者こそ出しませんでしたが、藩財政は底をつき、厳法をさらに10年延長せざるをえない状況でした。そして弘化2年(1845)、窮乏の復興策として取り入れられたのが、「興国安民法」(御仕法)でした。

御仕法は、中村藩士で二宮尊徳の弟子となった富田高慶から、中村藩復興の良策案として家老草野正辰に進言があり、得心した草野家老は家老池田胤直らと藩論の統一をはかり、藩主に上申して導入されることになりました。


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