市長エッセー

リヤカー

2011/08/08

私の母は相馬市街地近郊の農家の娘。お八重ばあちゃんはよく働く人だった。
近郊農家だから、リヤカーを引いて裏の畑で採れた野菜売りに出かけた。その荷台にちょこんと乗って、私が育った漁村の原釜とは違った町の風景を、恥ずかしいような気持ちで見ていた。ばあちゃんは話好きで、待っていてくれる商店街のお客さんとの世間話が止まらなかった。中村田町と宇多川町の間にあったホーライ食堂もお客さんで、よく売れた日はリヤカーを停めて肉うどんを食べさせてくれた。ばあちゃんは私がうどんの汁をすすり終わっても話に夢中だった。
そういえば、原釜にも三角なっとうを自転車で売りに来る人がいたし、豆腐はリヤカーだったように思う。母に言われて、ボールを持って豆腐を買いに走った私のお手伝いを、おばちゃんが褒めてくれた。50年前の相馬は、町も浜も時間がゆっくり流れていて、会話と笑顔にあふれていた。私の醤油屋も工場や店の出入り口にいちいち鍵など掛けなかったし、他の家々でも開けっ放しだった。
津波直後はガレキの原だった原釜が、ガレキ撤去が済んで無機質な平地になってしまうと、思い出すのは子どもの頃の記憶ばかりだ。でも被災直前まで、人びとの会話や笑顔は昔のままだったし、鍵をかけない習慣は今でも当たり前のことだった。浜に住んでいる人びとは家々の家族構成はもちろんのこと、それぞれが何をしているかも大抵知っていた。

今、都会では無縁社会と言われ、経済成長時代以来に出来た、個人生活重視の文化的住居ゆえの孤独死が社会問題となっている。それに対し、今回被災してガレキの原となった原釜も尾浜も磯部も、人びとの絆という点では、集落のコミュニケーションが豊かな地域社会だった。今回の災害対策で私が最も感心し、そして合点したことは避難所の整然とした気配り社会である。およそプライバシーとは程遠い空間での生活を、長い人で3カ月も辛抱出来たのは、諍いを生じさせなかった彼らの賢さゆえである。避難所を集落単位で指定したことを、思いやりと励まし合いにおいて活かしてくれた。仮設住宅にも集落の形態を保ったまま移住してもらったが、行政支援員として集会所単位で選任した組長さんや副組長さんのもとで、思いやりを交わしてくれるに違いない。 

ただ、問題は相馬市以外から仮設住宅に入居する方々を、どのようにコミュニケーションの輪に組み入れるかということである。例えば飯舘村長さんから依頼された164世帯については一つのブロックに入ってもらい、組長さんと副組長さんに私の考えを話して理解してもらった。もちろん生活物資の配給や、避難所支援のサービスなどは組長会議を通して相馬市民と同様にさせてもらう。しかし飯舘村からの入居者のように地域コミュニティが最初から組めるところは心配がないのだが、さまざまな市町村からの入居者で仮設所集落を形成せざるを得ないブロックがどうしても出来てしまう。知らない人たちどうしのコミュニティをどのように作るか?
最低やらなければならないことは、災害弱者支援、つまり身体・精神障害者の方々への支援、要介護老人世帯への気配り、それと災害によって独居世帯となった方々への支援と気配りである。少なくとも平成23年度は、これらの方々をはじめ希望する入居者全員への夕食の配給を続けるつもりだが、その他の災害弱者への生活支援なども相馬市民同様に行いたいと思っている。ただし、ふるさと自治体との調整も必要だ。

相馬市としては、出身自治体を問わず、仮設住宅からの立ち上がりを迎える日が来るまで、1,500戸の方々全体を一体として、均等にサービスを展開したいと考えている。例えば健康維持については負担金なしで一般健診を全員に受けてもらいたい。また買い物支援や孤独死防止なども、全体に網をかけての配慮が必要だ。
この点について、冒頭書いた私の子どもの頃の記憶で恐縮だが、リヤカー引きの戸別販売を考えてみた。16か所出来る集会所にそれぞれ一人の割合で、リヤカー引き販売員を行政支援員として臨時雇用して、仮設住宅の一棟一棟の間を通って訪問販売をする。雇用対策も兼ねるので一日8時間週5日勤務とするが、販売以外の時間は障害者の方々へ、たとえば洗濯などの生活支援をしてもらう。
募集したところ、お八重ばあちゃんのような話し好きな浜の女性たちが集まってくれた。小さかった私が乗った鉄と板で出来たリヤカーを相馬市いっぱい探したが、もう何処の農家にもなく、スタイリッシュなステンレス製折りたたみ式となった。始めて一カ月になるが、最初の計画とは違い二人ひと組で廻っている。その方が会話が弾んでいいのかも知れない。

 

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