市長エッセー

憂鬱と憤慨

2003/07/18

十年前程のことだが、子供のテレビゲームを見て愕然としたことがある。彼らのゲームの世界では呪文を唱えることによって死者が生き返るのだ。
命は連鎖しない。だからこそ死は悲しみであり、神聖であるのに、キリストまがいの再生を、現実と混同させるようなゲームの世界に戦慄を覚えたのである。

最近の少年犯罪のあまりにも命を軽視する傾向があることに、鬱々たる気分になっていた処に、12歳の少年の幼児殺人である。亡くなった幼児の霊に何を手向けたらよいだろうかと思う反面、この触法少年の存在を、私を含めて社会がどのように理解したらよいのかわからず戸惑っている。

被害者のご両親の姿には言葉もないのだが、加害者にも親がいる。学校でも社会でも普通の少年だっただけに、自分の子供の犯した犯罪に直面した親の絶望、悲憤は想像もつかない。学校教育関係者をはじめ、われわれの社会自身の問題として、この事件の解析を進めるべきなのだが、注意深く今後の推移を見守ってゆかなければならないと思う。

ひとつだけ。

「加害者の親を打ち首にしろ」と言った大臣がいる。
そんなことで解決できるなら、国中が憂鬱にならなくて済むのだ。小泉内閣も落ちたものである。
われわれが直面している問題は、情報社会への危惧であり、豊かさへの疑問であり、日常社会への不信感なのである。あの大臣は何かにつけて改革々々と叫んでいるが、心の痛みがわからない政治家に権力を与えてはならない。

早く辞めておしまいなさい。

 

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