市長エッセー

See you again - また会う日まで

2013/06/17

今では4年前になる2009年の3月のこと。
新宿の居酒屋で知人に紹介された彼は、飲酒運転事故撲滅キャンペーン映画「ゼロからの風」を、行政と協同して子どもを持つ全国の親たちに見せたいから、手始めに相馬市長の協力が欲しいと熱く語った。私より5つ若く、俳優だけあって端正な顔立ちをしている。映画への想いを表情いっぱいに語る映画監督塩屋俊氏のひた向きさに気圧されて、私が道筋をつけてあげればこの若い監督の情熱が日本中の子どもや親たちに届くかも知れないと思った。

相馬に戻り心当たりに話したところ、「やってみようじゃないか!」ということになり、さっそく実行委員会が結成された。メンバーは交通事故対策協議会の母親代表、市議会議員のOB、商店街の旦那たち、それと私の友人たちだった。
今では震災で取り壊されてしまった相馬市民会館での上映会は7月。会場いっぱいの市民を前にした監督挨拶では、作品にかける自らの想いと、会場に溢れる感動に対しての監督としての喜びを語った。彼は、鋭い洞察力を持ちながら、子供のように素直な感性と、やんちゃと思えるほどの行動力を備えていた。
その日。相馬市内を案内しながら、南北朝時代以来この地にあって辛苦を嘗め尽くしながら領地を守ってきた相馬藩の歴史や、700年の時の流れの中で武士や領民が相馬のスピリットとして大切に受け継いできた「相馬野馬追い」を説明していると、突然、「ここで映画を撮りたい」と言い出した。
その当時すでに撮影に入っていた、らい病患者への社会的偏見を題材にした作品「Swing me again - ふたたび」も、完成を待って相馬市民会館で上映された。「次は野馬追いを題材にしたご当地映画を!」というこちら側の機運も高まり、私の友人や五郷騎馬会の幹部たちとの交流も始まった。実際に、私が総大将を務めた2010年の野馬追では執行委員会の承諾の下に、出陣前の三献の儀の一部始終と宇多郷騎馬勢の出陣の様子、雲雀が原の壮大な斎事を収録するためにカメラを回した。私の友人たちを中心にご当地画製作のサポート隊も作られ、暇を見つけては相馬を訪ねる塩屋氏の友情の輪が急速に広がっていった。

2011年3月11日の大津波のあと数日間は携帯電話が繋がらない日が続いたが、3月14日になって彼の肉声が飛び込んできた。「テレビで立谷さんが無事なのは見た。でもみんなに被害はないのか?原発は大丈夫か?自分も支援に相馬に向かいたい」
私は、「映画のサポート隊のメンバーは全員無事だし、頑張って乗り切るから東京で見ていてくれ。相馬は大丈夫だ」、と応えつつも「こうなったらご当地映画どころではない。被災者も私も命がけだ」。心の中でそう思った。
実際に被災後数日は無我夢中だった。私自身も原釜の生家を跡形もなく流され、親せき友人、それに多くの消防団員を亡くし、しかも避難所には4000人を超す被災者を抱えていた。私には悲しんでいる暇も感傷に浸る余裕も無かった。実家を継いだ弟夫婦の消息が不明だったが、家族を亡くしたことを知りながら黙々と執務する市の職員たちを見て、「誰か俺の弟を知らんかい?」などと、とても聞けなかった。弟夫婦の無事を確認するまで結局まる2日を要したが、現場はそのくらい混乱していたのである。

彼の電話を受けた3月14日は三号機が水素爆発を起こして、国からの支援職員や報道陣が全員、相馬から一斉に逃げ出した日だった。原発事故は何処まで広がるか予想がつかない状態だったが、公立相馬病院に唯一あった線量計の示す市内の数値は2μcV未満。この線量なら、病院にいる入院患者や老人施設の入所者、被災者を連れて我々自身が相馬を捨てて難民になるリスクの方がはるかに大きかった。なによりこの段階では、入院患者や避難所にいる被災者の健康を維持しつつ、水・食料・医薬品・ガソリンを確保することが一番の課題だった。しかし原発事故の恐怖が病院や老人施設の職員たちの現場離れにつながっていく。現に南相馬市では医療スタッフの離脱により全ての病院が閉鎖に追い込まれ、病人にとって極めて危険な脱出劇が繰り広げられた。
相馬市の病院や老人施設でも一部の離脱者が出たものの、残されたスタッフたちが厳しい物資不足のなかで泊まり込みながら患者たちを守って奮闘していた。私が市民に発した決断は、国が避難命令を出したときは仕方がないから、避難計画を立てた上で整然と相馬を離れる。しかし避難命令がない以上は、災害弱者を避難させるリスクを取るよりも相馬に止まる。医療スタッフたちは泣きながら市の方針に従って頑張ってくれた。

私は、「来ない方がいい!」と言ったのだが、食料不足や原発騒動がピークに達しようとしていた3月24日、まるで戦場のような相馬市に彼は、車一杯の食糧とあの快活な表情を積んでやってきた。相馬の友人たちが大変な時に、何でもいいから手伝いがしたいという。
そこで私は、この震災と相馬市の対応を後世に伝えなくてはならないから、映画監督なのだから記録を撮っておいてくれないかと頼んだ。複数のメディアから継続的な記録映像撮影の申し込みがあったが、彼に限って許可を出すことにした。許可とは対策会議の映像も含めて市役所内での撮影のことである。また相馬市での活動の拠点として相馬中央病院の出入りを許可した。
私の依頼に応じて、被災の状況と避難所の様子を撮影しているうちに、被災者、特に殉職消防団員の家族との交流が生まれていったらしい。あの快活な性格で被災者の中に溶け込み、また病院の職員たちをずいぶん励ましてくれたと思う。

3ヶ月経って避難所から仮設住宅に全員が移り、我われも週に一日は対策会議を休めるようになってきた6月末、今度は、「震災直後からの相馬市の皆さんの頑張りと、これからの復興をテーマにした映画を作りたい」と言い出した。「おいおい、野馬追いは必ず復活させるんだからそっちの映画はどうするの?」「復興のシンボルとして野馬追いを映画に組み込みますから、旧相馬藩は必ず立ち直ってください」

2011年の野馬追いは南相馬市原町区(中ノ郷)が屋内退避区域、小高区以南(小高郷、標葉郷)が避難区域だったため、相馬市(宇多郷)と南相馬市鹿島区(北郷)のみで執行された。とにかく一年でも絶やさないようにという第33代相馬藩主和胤公の御下命を戴いたことに加え、津波や原発被害から必ず復興するぞ!という決意を全国に避難している同朋達に示す必要があった。この年は相馬市内と旧鹿島町内の行列だけで終わったが、騎馬行列は希望を見出そうとする相馬市民を元気づけてくれたし、全国から多くの友人や相馬ゆかりの人たちが我々を励ましに集まってくれた。そんな光景を彼は撮り続けた。
その後の取材は、殉職した消防団員のご家族と、再開した南相馬市の二つの民間病院の職員たちにも及ぶようになっていった。それぞれの震災後の健気な頑張りが、感受性の豊かな彼の心を動かしていったのだろうと思う。いつしか私も、彼の笑顔を楽しみにするようになっていたし、弟を迎えるような気持ちで取材の報告を聞いた。

その彼が、映画製作の前に、殉職消防団員たちの郷土愛と医療現場の頑張りを舞台劇にして、広く世界に訴えたいと言い出した。ひいては一周年にあたる2012年の3月に、ニューヨークのブロードウェイと国連で公演したいから、市長も一緒に来てくれという。3月11日は慰霊祭なので相馬を離れるわけにはいかなったが、それなら慰霊祭が終わった直後に出発してくれれば、着いた日時に合わせて国連の公演を企画するから、どうしても国連で舞台挨拶をして欲しいと言うのだ。私は、「このやんちゃ坊主が!」と思ったが、一方では、それで彼の才能が世界に向かって羽ばたくなら協力を惜しむわけにはいかないな、とも思った。

舞台劇HIKOBAEは、震災後の相馬市役所と相馬中央病院での実話に基づき、フィクションとしての殉職消防団員と看護師のラブストーリーを加えた精神性の高い作品に仕上がっていたが、私も市長として劇中に登場するので市職員の証言を交えてシナリオに手を入れさせてもらった。
国連の小劇場いっぱいになった、西田国連全権大使が誘った諸国の大使たちを前に、俳優たちが精魂の演技をした後のカーテンコールに、西田大使に続いて緊張しながら英語でスピーチした私を、彼はやはり悪戯っぽい目で見ていた。やんちゃ坊主め!
帰国後、東京天王洲アイルの銀河劇場での公演を経て、最後は相馬市のはまなす館での最終公演だった。彼は相馬市の殉職消防団員のご遺族全員を舞台に招待した。驚いたことに、ご遺族は全員が遺影を抱いて観劇していたのだ。遺影を前に俳優たちは国連以上に緊張したという。ご家族をはじめ会場全体が目頭を拭きながら劇の進行に見入っていた。彼の心憎い演出だったが、このとき私も殉職した団員の為に顕彰碑を造ることを心に決めた。

2012年度に入り相馬市は相馬井戸端長屋の完成や、復興住宅の建設のための住宅団地造成が始まったことなどから、ようやく復興の機運も高まって行ったように思う。市民の気持ちも、震災被害を最小限にという守りの姿勢から、新たな相馬市の創造へと少しずつ変わっていった。徐々に落ち着きを取り戻していく市民の表情の変化に敏感に反応した彼は、今度は震災対応から復興への過程をドキュメントDVDにしたいと言い出した。
節目ふしめでの私のインタビューに加え、震災直後の記憶をそれぞれの医療現場や教育現場の人たちに語ってもらい、災害の映像に加えて記録集にしたいという。それは私が最初に彼に依頼したことでもあり、震災記録は我われの義務でもあった。
実はこの仕事こそは、今後何年も続けなければならない後世への伝言なのだが、これからどうしたらよいものか?

2012年の暮れから、新たなHIKOBAEの公演計画に入った彼は、シナリオの総合的な再検討を始めた。前回のシナリオは医療現場での手技が十分に検証されていなかったから医師たちから見ると稚拙だったため、東大医科学研究所の上教授と整形外科の石井医師に再構築してもらうことにした。外科医役で手術の演技をする彼も手技の指導を受けることになったが、人柄ゆえかプロたちがいろいろと親身になって面倒をみてくれた。ノンフィクション部分のセリフについても再検証を加え、シナリオに深みが増したように思う。
新しいシナリオの下、2013年は3月のロサンゼルス、4月のニューヨークを皮切りに、岩手県宮古市、福岡、神戸、大阪、東京、福島、盛岡、仙台と、およそ3か月かけて大々的に公演されることになった。

またその後の活動としては、東京公演の際にしっかりした映像に残し、私が紹介する都市に出向いてスクリーンでの上映会をしたいというので、何人かの市長を彼に紹介した。私が紹介するたびに、その都市に飛んで行っては上映会の段取りをお願いして回った。市長たちも彼の人柄に惹かれ快く承諾してくれた。
相馬市としては、あの時の市民の頑張りが日本中の多くの人々に感動を与えるとしたら、この2年間支援をしてくれた方々への恩返しにもなるし、やがて交流人口の拡大にもつながるので有難いことである。しかし、私にとってのもうひとつの楽しみは、これで彼の映画監督としての才能を日本中、世界中に発信できないだろうかという期待だった。いつしか彼に対する私の想いは、やんちゃ坊主が芸術家として世界に通用するように育ってくれという夢に変わっていた。

今年の公演の千秋楽となる仙台公演の会場は、6月5日18時30分から東北電力ホール。
その日の私は全国市長会出席のため東京出張だった。14時からは全国医系市長会の総会が始まり、会長の私は座長席で議論の整理をしていた。マナーモードにしていた携帯電話がポケットの中で震えたが、勿論電話に出るわけにはいかない。会議が終わった15時30分、電話の主であるHIKOBAEのマネージャー長谷川彰介さんに電話を入れたところ、舞台の打ち合わせをしていた13時半ごろ塩屋監督が「背中が苦しい」と言って急に意識を無くし、救急車で仙台厚生病院に搬送された、とりあえず市長には報告と思い電話を入れたと言う。彼が自ら演ずる川添医師役については他の役者が急きょ代役を務めることになり、今練習中だがこちらは何とかなりそうだとも聞いた。私は胸騒ぎと息苦しさに堪えながら、震える手で仙台厚生病院に電話を入れた。理事長が出られ、病院到着時すでに心肺停止の状態で、八方手を尽くしたが蘇生することが出来なかった、病名は剥離性大動脈瘤の破裂だったと聞かされた。思わず息を呑み、動転した私は、「お世話になりました」と応えるのがやっとだった。
このような時、哀悼とか冥福とかいう気持ちが浮かぶものではない。しかし死亡が覆らない事実である以上、この場合悲しむ余裕など無いことに気付き、震災の時のように今何をすべきかを考えた。

彼はHIKOBAEという作品を自分の子どもみたいなものだと言っていた。その子どもを舞台劇として成長させ、産みの親である彼も舞台監督として世界に羽ばたこうとするときに、親が死んで子どものHIKOBAEもひん死の状態にあるのだ。私は再び長谷川さんに電話を入れ、「カーテンコールの舞台挨拶を、監督体調不良という理由で、私が彼に代わって申し上げましょう。また役者たちには監督死亡を伝えないでほしい、集中治療室で頑張っていることにしてください」とお願いした。「舞台挨拶に市長が来てくれるなら団員達も安心して演技が出来るので、是非そのように」と、長谷川さんの少しだけホッとしたような声が聞こえた。

福島で降りるはずだった新幹線を乗り越し、仙台駅に着いた私は病院で対面してから劇場に向かった。舞台挨拶で、「病院で監督に会ってきましたけど、皆さんに宜しくと言っていましたよ」と嘘をつこうと思ったからである。
救急玄関の前で涙をいっぱいにためて私を見ている人がいた。奥さんだった。
案内されて霊安室に行く途中、「しっかりしなさい! HIKOBAEの千秋楽を前にして、監督が死んだのだ。看板役者がいなくなったのだ。今日は千秋楽の舞台をきちんと納めなくてはならない。そのために私が来たのだ。これからが大変だ。あなたに泣いている余裕はないはずだ。この2週間は危機管理と思って頑張りなさい!」
言う方も辛いが、言われる方はもっと辛いだろう。しかし責任感の強い人だったから舞台に穴を空けることや、舞台挨拶が出来ないことに気をもんでいるに違いないと思ったし、呆然とする彼女にかける言葉が他に見つからなかった。彼女は背筋を伸ばして、「わかりました、明日ニューヨークから息子が帰ってきます。これから大変ですがしっかりします」。そう言ってくれた。 

カーテンコールで出演者が勢ぞろいし、消防団員栄治役の鈴木亮平君が短めの挨拶をしたあと舞台に招き入れてもらった私は、まず急病の監督に代わって御礼の挨拶に駆けつけたことを述べ、震災直後に彼が車いっぱいの食料品を積んで相馬市に来てくれたこと、被災者や病院を励まし続けてこの美しい舞台劇を作ってくれたことを紹介した。次に、見に来てくれた仙台市民に対するお礼を述べ、そして見事に演じ切ってくれた役者さんたちを讃えた。最後に今日までに監督が相馬に寄せてくれた思いに感謝し、会場の皆さんもこれからの相馬の復興を温かく見守っていて下さいと申し上げて挨拶を終えた。

HIKOBAEは映画監督塩屋俊氏の遺作となってしまったが、被災して困難の極みにあった相馬の人々が強く生きようとした舞台劇のテーマが、そのまま彼の遺言のように思えてならない。
4年前、突然私の前に現れ、震災を挟んで風のように相馬を駆け抜けた彼は、私たちの心に忘れ得ぬ思い出を残した。何より私は彼と過ごした時間がこの上なく楽しかったし、彼の才能に自分が成し得ぬ夢を見させてもらった。願わくば、この遺作が多くの人々に勇気と感動を与え続けてくれ給え。
彼はHIKOBAEを自分の子どもだと言った。その子どもが独り歩きするとき、私に代理で舞台挨拶をする機会があったら、喜んで勤めたいと思う。

 

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