市長エッセー

義理と人情

2013/01/19

年が明けてから、マスコミの方々からのインタビューを受ける機会が増えた。たいていの質問は、「震災後1年10か月たって、現在の状況は如何ですか?」というもの。
震災復興事業が多岐に亘ることに加え、相馬市、県、国の事業のそれぞれが対象も完了時期も違うので、とても一概に言い表せるものではないし、ソフト面では目標設定が困難なこともあり進捗状況の正確な評価は出来ないので、「富士山登山で言えばおおむね3合目ぐらいでしょうか?」とお話ししている。 また、感想も含めてこんなことを申し上げている。
「この震災で私が学習したことは、人はひとりでは生きて行けない、また震災対応は義理と人情だった。」
つまり、人生にとって周囲のコミュニティが如何に大切であるかを改めて実感したことと、友人首長たちの友情で急性期を乗り切った忘れられない経験のことである。

津波の直後、集落ごとに避難所に入った海岸部の人々はお互いの無事を喜びながら励まし合っていたが、一方、我われは4000人分の食糧と生活物資を供給し続けなければならなかった。せっかく悪魔のような大津波から助かった人たちが脱水や栄養失調になったらどうしようと、私自身が不安にかられていた。ところが、震災の翌日から水や非常食のアルファ米が続々と届き出したのである。震災翌日の3月12日、痛んだ道を何とか走り抜けてきた役所の車で、水、非常食、毛布を届けてくれた流山市、米沢市、足立区、上越市の支援は、地獄で仏を見る思いだった。3日目以降も、小諸市、日光市、裾野市、滑川市、須崎市、大野市など、防災協定締結市だけでなく、友人の市長たちから続々と支援物資が相馬市役所に届けられた。中には敦賀市のように、市長が自ら支援物資をいっぱいに積んだトラックと一緒に、早々と私を励ましに来てくれたところもあった。
原発の風評被害で物流が止まったために食料品が入手できなくなっていたし、県から支援物資が最初に届いたのは3月17日の深夜だったから、我われ相馬市は被災したあと1週間は彼らの友情に頼って生き延びたと言える。また、稲城市、流山市は12日の午前中には給水車を届けてくれた。地震のせいで、市内の至る所で断水していたので本当に有難かった。その後も日頃つき合っている市町村長たちから、途絶えることなく水や食料が届いた。これらの支援は、私が頼むより先にニュースで相馬市の惨状を知った首長の指示で行われていたのである。

全国市長会長の森民夫長岡市長は、被災後まもなく「相馬市は大丈夫か!」と電話をくれたが、会長を煩わせる訳にもいかないと思い、「何とかなるから」と返事をした。しかし、本当は大変なはずだと心配してくれた彼は、4月2日に見舞いを兼ねて相馬市にやってきた。「俺に出来ることがあったら遠慮しないで言ってくれ」という言葉に甘えて私は、「復興するには人手が足りない。技術者の支援をお願いできないか?」
急な人事のお願いで恐縮だったが、7月1日から、長岡市の技術者を3か月のローテーションで派遣してもらった。そして、膨大な事業量を抱えマンパワー不足に苦しむ相馬市に対する森市長の支援は、今日も続いている。

23年7月28日から31日朝にかけて福島県会津地方・新潟県を襲った集中豪雨がテレビで報道された時、私は3.11の直後にお世話になった南会津町長と森市長にそれぞれ電話を入れた。南会津町長は、「自分のところは大丈夫だが、只見町と金山町が大変だ。そちらへ支援してくれないか?」森市長は、「長岡市は持ちこたえられないほどの被害ではない。しかし三条市が大変だ。三条の国定市長を頼む。」
それぞれの首長たちに電話を入れたところ、3市町とも被害は相当ひどいらしく避難所は満員、欲しいのは水と食料との要請だった。当時の相馬市は、原発事故状況の悪化に備えて240トンのペットボトル水を備蓄していたし、カップ麺などの非常食も余裕があったので、南会津町長や森市長からの義理を返さねばと思い、只見町20トン、金山町10トン、三条市12トンの水と、それぞれ数千食のカップ麺をただちに送った。

その後三条市の国定勇人市長とは、全国市長会や、地方分権の主張を同じくする首長たちの会で交流を深めていったが、40歳そこそこの実直な青年市長である。礼儀正しく、行政手腕にもそつがない。災害支援をこちらから申し出て以来のお付き合いだが、相馬市の復興には長期的な人的支援が必要と考えてくれて、昨年10月から三条市の職員を二人も派遣してくれている。若いが義理がたい人物だ。さらに三条市とは来月には防災協定を結び、これから両市は親戚付き合いをすることになった。
相馬市が行う復興事業だけで500億円弱。例年の当初予算が140億円程度の相馬市にとっては気の遠くなるような事業量である。また今後、事業内容が確定することによってさらに増えることが予想されるのだ。従来の相馬市役所の戦力では、何年かかるか見当もつかない。総務省のご配慮により全国5市からそれぞれ一人ずつ技術者の派遣をいただいているが、防災協定都市や友人市長たちのご厚意により、ほかに11市から15人の派遣職員を送ってもらっている。例外なく、自ら志願して来てくれた人たちだけあって、一騎当千の強者ばかりだ。
相馬市は震災前に流山市、足立区、裾野市の3自治体と縁あって防災協定を結んでいたが、3首長とも強力な支援体制を以って相馬市を助けてくれている。さらに震災後、稲城市、小田原市、西条市、米原市、龍ケ崎市、日光市と新たに防災協定を結んだ。何れの都市も、震災支援により縁を深めた相馬市に温かい友情を持ち、職員派遣などを通して震災対応を学び、自らの防災対策を堅固にしようとする熱意を持つリーダーシップあふれた市長が率いている。

現在、相馬市が建設を進めている防災備蓄倉庫(#1)は、無論、3.11の震災の際に水や食料や毛布が足らず四苦八苦した経験から、次の災害時の市民の安全を図るために整備するもの。しかし、もうひとつの目的は、あの震災直後にお世話になった市町村の非常時に、支援物資を満載したトラックを出発させることである。我われ相馬市は、震災以来今日まで数え切れないほどの人情に助けられてきた。復興をしっかり遂げることが人情を寄せてくれた人々に応える最大の義務とは思うが、お世話になった市町村の被災時に何も出来なくてジリジリすることがないように、義理を果たせる準備をしておきたい。

(#1)市長エッセー「防災倉庫」(2012/06/18)

 

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