市長エッセー

漁労倉庫

2012/12/10

12月9日。津波で流された相馬双葉漁業組合の敷地に、1棟が12区画(1事業者1区画9坪、底引き船は1隻あたり2区画を使う)の作業所付き漁具倉庫を、全部で11棟建設する計画が着工した。私が、幼馴染の漁師たちと計画を練りに練り、復興庁や国土交通省の理解を得ての復興事業である。来年度の完成を目差し、津波原発被害からの復興と工事の安全を願って、大声で工事鍬入れ式の鍬を振るった。

私の育った原釜は、物心ついた昭和30年代の前半頃まで、遠浅の浜辺に手漕ぎの漁船が無数に並べられていた。朝、漁から戻った漁師たちを迎えた浜は、そのまま子どもたちの遊び場になった。親たちは網をリヤカーに載せて家に戻り、ほころびた網を庭で繕っていた。やがて発動機付きの漁船が主流になると、近くの松川の港から出漁するようになり、我われ子どもたちは港に小魚をもらいに遊びに行ったものだ。それでも原釜の浜は相変わらず子どもたちで賑わっていたし、親たちは漁網や道具を載せたリヤカーを牽いて、自宅を作業場とする漁業に勤しんでいた。やがて時代は平成へと移り、私の遊んだ原釜の浜は相馬港の1号岸壁となってしまい、心に残る風景は消えてしまった。大型化した漁船は茨城県沖や宮城県の金華山沖まで出漁するようになり、リヤカーは軽トラックへと変わったが、漁の準備をする場所は依然として自宅であり、生活と漁業は一体だった。

相馬市は、その人々が暮らす原釜の家々と、漁業組合がある漁港の、わずかなコンクリートの躯体を除くほとんどの構造物を、無残にも流し去った去年の大津波の4カ月後、400年前の先例(1611年、第16代義胤公の時代に慶長大津波に襲われた後、高台移転を命じた結果、その5年後の元和大津波では死者を出さなかった)に倣って津波危険地域に居住制限をかける条例を制定した。今、移転先の高台に復興住宅を造るための宅地造成事業に取り組んでいるが、数年後の払い下げを考える賃貸住宅敷地は50坪しか提供出来ず、また復興事業による分譲地は100坪以内と決められている。漁業者は狭くて仕事にならないと言うが、分譲地の面積は政府の取り決めであり、何より高台となる山を開発して住宅地を確保しようとするのに、開発可能な土地の面積には限界があるのだ。

一方、居住制限をかけたゾーンは日中の立ち入りや事業所の建設は認めることとした。港を立ち入り禁止にすれば漁業は成り立たないし、警報システムと避難道路をしっかり整備することを前提として、寝泊りさえしなければ土地利用は可能と考えたのである。もしも、あの津波が深夜12時に来ていたらと考えると、居住制限は已むを得ないが、日中の土地利用を安全にするための努力は出来るからだ。

私は、相馬の漁業もやがて再開し、以前のように魚市場の活気が戻る日が必ず来ると信じている。
ただ、その日が来ても原釜の居住制限が解除になることはあり得ないので、網繕いなどの漁労と日常の生活を完全に分離して、漁業を継続してもらうしかない。したがって小型船1事業者あたり9坪の家屋面積を有し、露天部分を含めると15坪の倉庫付きの作業所(長屋形式の漁労倉庫)を11棟131区画造る計画である。どうせ造るなら、見栄えのいい、漁業復興のシンボルとなり、ひいてはこの港の魚に付加価値をつけてくれるような建物にしたいと思い、平瓦ぶき和風の蔵をイメージするようなデザインにした。沿岸漁業における職住分離という新しい概念に、ハードの上から取り組まざるを得ないという、大震災がゆえの事情もあるが、新しい時代の漁業と思ってもらいたい。
運営は漁業組合に任せるが、1棟ごとに長屋のような連帯意識をもって、私が育ったあの原釜の賑わいを取り戻してくれたらと、心から願う。

 

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