市長エッセー

里の秋

2008/11/14

 YouTubeという動画サイトがある。ワールドワイドな組織で、なにか事件があるとすぐに一般の投稿者から動画がアップされるので、ある意味では新しいニュース媒体として活用されているが、スクープとなるような画像は問題ありとしてすぐに消されるらしい。だからといっていちいちチェックしている暇はたいていの人にはない。
 日曜日、運転する車のラジオから流れる「里の秋」のメロディーと歌詞に心がなごみ、帰宅後さっそくYouTubeで検索したところ石川さゆりさんが歌うシーンが出てきた。伸びのある澄んだ声がこの歌の醸し出す風情に合って、懐かしい囲炉裏ばたのにおいがするようだ。
 母の実家が農家だったので、子どものころ泊まりに行った祖父の家には土間と囲炉裏があった。梁がむき出した天井からは自在かぎが下がっていて、鍋を炙る火がともると灰汁と天井のにおいが鼻をついた。農作業を終えた家族に囲まれてパチパチと音をたてる夕餉の火は、夕方まで商売で忙しかった生家の喧騒と違って、我われ子どもの目にはとてもやさしく映った。

 「里の秋」は昭和20年12月24日、NHKのラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の第一回放送で発表された。1番2番の歌詞は、不在の父を待つ故郷の情景を想いおこさせて、美しいメロディーとともに日本人の原風景に帰っていくような気持ちにさせられるが、3番の歌詞を聴くとこの歌が戦争と深いかかわりを持つことがわかる。外地で終戦を迎えた父を待つ留守家族の気持ちと、秋の夜の情景が描かれていて、全体的には家族の温もりをテーマにした曲である。
 しかし歌詞を聴いて誰でも思うことだが、外地からの引揚者を迎えるラジオ番組のこの主題歌を、兵士を位牌で迎えた家族たちはどんな気持ちで聴いたのだろうか?その後この歌が国民的な歌唱曲になった背景には、日本の社会が既に失いつつあった人里の秋の夜の情景を懐かしむ気持ちと、戦争に振り回された家族の悲しみや死んだ兵士たちへの鎮魂があったのだと思う。

 去る11月7日に市と遺族会主催による相馬市戦没者追悼式が行なわれた。会長の中山誠一氏も既に古希を迎えようとしているお歳だが、挨拶の中で、父の戦死を祖父から聞かされた時の思い出話には涙が出た。おじいさんはどんな気持ちで小さな孫たちに息子の戦死を告げたのだろうか?
 個人的な意見だが、自虐史観以外は認めようとしない政府やマスコミの態度は、ご遺族に対してあまりにも酷だ。太平洋戦争で亡くなられた相馬市の戦没者は1072柱。それぞれが悲しみとご苦労を背負っての63年だったのだと思う。そのご遺族も高齢化が進み、年ごとに追悼式の参加者も少なくなっている。従って、あと何十年かの後のご遺族がいなくなった時代に、1072柱の霊の鎮魂を相馬市としてどのようにすべきかをそろそろ考えるべきだろう。私としては、鎮魂の祈りと平和を願う式典として恒久的なものにしておきたいと思っているが、ご遺族の方がたと知恵を出し合いたい。

 ところで。
 YouTubeで「里の秋」を検索しているうちに、11月7日に73歳で亡くなった筑紫哲也さんが石川さゆりさんと炉辺を囲んで歌っているURL(*1)を見つけた。1992年の収録で、当時健在だった故水上勉さんの庵らしく、氏がよろこんで「冥土の土産だ」と仰っているのが印象深い。
 お会いしたことはないが、筑紫哲也さんにはいろいろ教えられた。多少、左がかったきらいはあったが、ものの見方考え方の、ひとつの指標を提示してくれたジャーナリストだった。大分県日田市で生まれた筑紫さんには、華やかな経歴とはうらはらの田舎くささがあった。朴訥として決して雄弁ではない語り口に、思わず引きずりこまれる人間味があったように思う。石川さゆりさんと一緒に里の秋をしみじみ歌うところに、それがよく出ている。
 何やら「里の秋」が鎮魂歌に聞こえるようなことを書いてしまったが、人々の心も文化も風景も、市場原理主義や金融工学の嵐に飲み込まれそうなきょうびの世相で、立ち止まって一息つけたくなるような大人たちの子守唄。

*1 http://jp.youtube.com/watch?v=4B3hRp94WJA&feature=related

 

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