市長エッセー

じい様は自転車に盛りだくさんの野菜を積んで

2017/03/28

88歳になる私の母は、相馬市北飯淵の旧い農家の次女。
昭和24年に相馬の海岸沿いの味噌醤油屋だった立谷家に嫁いで来て以来、海岸から100mほどの自宅で暮らしてきたが、10年前に丘陵地帯にある緑ヶ丘団地に移り隠居生活を送っていた。震災直後、地震津波を心配した父は本家の様子を見に行こうとしたが、避難する人たちの車の渋滞に遭い、引き返したお陰で津波をまぬがれた。
母は歳をとるにつれて子供のころの農作業を懐かしく思うらしい。隠居家の30坪ほどの小さな庭に、わずかばかりの野菜を植えて、畑仕事が楽しいと言う。農家の娘だった母の気持ちは少女時代に戻っている。

昭和17年。母方の祖父は長女を旧・保原町(現伊達市保原地区)に嫁がせた。交通機関もない時代だったから、阿武隈山地を越えての嫁入りは何かにつけて難儀だったろう。それでも祖父は、娘可愛さに、季節ごとに野菜を自転車いっぱいに積んで保原町の娘の家まで届けに通った。
当時の中村街道(現国道115号線。昭和38年に2級国道に指定)はつづら折りの小径が続き、急峻な「七曲がり」は、わずかばかりの交通量しかなかった自動車を時として谷底に飲み込んだ。
今では考えられないような話だが、祖父はよほど娘の笑顔が見たかったのだろう。一日がかりで自転車を押し、娘の家に数日滞在した後、ふたたび阿武隈山地を上り相馬への帰途についた。

昭和42年。私が16歳の高校一年の夏休み、自転車で仙台市を出発し、保原町から国道115号線を辿り阿武隈山地を越えたことがある。当時の115号線は処どころ舗装されていたが、当時の霊山町掛田からの上りはほとんどが砂利道だった。
8月の暑さもあってすっかりのどが渇いたので、水を飲ませてもらいに立ち寄った石田小学校の日直の先生に、冷えたキュウリと味噌をごちそうになった。冷たい水でほこりだらけの顔を洗い、口の中で水気をほとばしりながら砕けるキュウリの瑞々しさと、赤褐色をした味噌の塩っぽさで生き返った気がした。50年たった今でも、石田小学校の前を通るときは、心の中でぺこりと頭を下げることにしている。
しかし、その後の上り道のつらさは大変なものだった。私の自転車は当時の最新型ドロップハンドルで変速機付き。後輪の両側にテントなどの荷物をパンパンに下げてはいるものの、舗装道路では快適に走った。仙台から伊達町に至る国道4号線と伊達―保原間は完全舗装だったため、坂道も得意のローギアで難なく上り切ったが、阿武隈山地の上りの砂利道にはまるで通用しなかった。仕方なく自転車を降りて押して上ろうにも、頂上の霊山はあまりにも遠かった。
ようやく玉野地区から下り坂になったころは陽もすっかり暮れて、砂利道なのでスピードも出せないため自転車のライトの灯りもままならなかった。「七曲がり」では砂利に車輪をとられ、落車して足に傷を負ってしまった。痛さと心細さで泣きそうになりながら、「祖父もこの道を自転車で相馬に向かったのだ」。そう言い聞かせながら自分を励ました。原釜の親の家に着いたのは夜の10時。仙台の高校で夏期講習を受けているはずの息子が、危ない自転車旅行の果てに、夜中に醤油屋の工場で足の泥を洗っている姿を見た父には、えらい剣幕で怒られた。

その後福島医大に進学した私には、福島盆地の蒸し暑さは拷問のようだった。
あの阿武隈山地の向こうには生まれ育った相馬原釜の海があり、夏には心地よい浜風が吹き渡る。いっそのこと、あの山々にX字型の切り通しを造り、原釜の浜風をここまで吹き渡らせることは出来ないものだろうか?

平成7年。県議会議員に当選した私の、最初の6月議会での満を侍しての初質問は、115号線の急峻な「七曲がり」を高規格幹線道路で直線に出来ないだろうか?というものだった。 
私の高校時代と違って、既に全部が立派に舗装されていたし、まだバブルが残っている時代だったから車も豪華だったしガソリンも豊富だった。しかし、改善されたとはいえ「七曲がり」は交通の難所で、特に救急車で通りようものならば、遠心力で患者の体が斜めになるばかりか、点滴のバッグも横を向いたままだった。
私が子供時代に遊んだ原釜の海岸は、既に相馬港の一号埠頭としてコンクリートの岸壁になっていた。しかし、せっかくの相馬港も「七曲がり」での荷崩れと、カーブでコンテナトラックがすれ違えないため、福島県北地方の産業振興の役に立っていなかった。

「東北中央道を早く造ってくれ」などと大それたことは言わない。しかし、救急医療と、相馬・福島地域の産業振興の為に、せめて相馬から阿武隈山地の頂上に向かう交通の難所を高規格幹線道路で繋げるよう、県としても本気で取り組んでほしい。それが質問の趣旨だったが、その2年後。思いが少しでも届いたのか、115号線の相馬山上地区からの上りの区間を、「阿武隈東道路」として調査費が予算化された。

あれから20年。
東日本大震災という私の人生の最大の苦難は、いや未だ終わった訳ではないのだが、形を変えて私に大きな慰めをもたらせてくれた。3月26日の復興支援道路としての阿武隈東道路の開通式は、積年の悲願を叶えてくれた心の底からの歓びだった。石井国土交通大臣によれば、平成32年度には原釜の浜風が福島まで届くという。
スピーチを求められた私は、個人的な話で申し訳がないと思いながらも、75年前の娘を想う祖父の気持ちを語った。懐かしい祖父や叔母の笑顔が脳裏を過り、思わず涙が出そうになったが、震災で死んでいった人たちを想い、マイクを握りしめて堪えた。

でも、まるで夢のようだ。

 

前のページへ戻る

ホーム > 市長室 > 市長エッセー集 > 市長エッセー