相馬野馬追

7月23日、相馬市内ではたくさんの騎馬武者(きばむしゃ)の行列がおこなわれます。
みんなは見たことがあるかな?
この行列は1060年あまり続いているといわれる相馬野馬追というお祭りのなかのひとつで、お祭りは相馬市、南相馬市原町区、南相馬市小高区という広い範囲で、また宵祭(よいまつ)りから野馬掛(のまがけ)まで四日間という日数をかけて盛大(せいだい)に行われます。
ここでは野馬追の歴史やお祭りのながれをみていきます。

 

野馬追のはじまり

相馬藩を治(おさ)めていた相馬氏の先祖である平将門が、下総国(しもふさのくに)葛飾郡(かつしかぐん)小金ヶ原(こがねがはら)(現在の千葉県流山市付近)に野生(やせい)の馬を囲い、領地の兵を集めて、野馬を敵に見立てて武術の訓練(くんれん)をしたことが野馬追のはじまりであるといわれています。
その後相馬氏は奥州合戦(おうしゅうかっせん)の褒美(ほうび)として与えられた奥州行方郡(おうしゅうなめかたぐん)(現在の南相馬市鹿島区・原町区・小高区)に住むようになり、野馬追の行事もこの地へ引き継がれました。
その後代々の藩主が、武の神「妙見(みょうけん)」への信仰祭礼(しんこうさいれい)の表れとして、また北の隣国、伊達藩(だてはん)の脅威(きょうい)にそなえた軍事訓練(ぐんじくんれん)、産馬(さんば)の奨励(しょうれい)として伝統を守り続けてきました。
しかし、時代が変わり明治5年に野馬原(のまはら)の野馬がすべて捕らえられ、昔から形の野馬追は終わりを告げました。

 

 

現在の野馬追

相馬三妙見の一つである太田神社(南相馬市原町区)が中心になって野馬追を復活しようと働きかけ、明治11年に内務省から正式に許可を得て、中村・太田・小高の三社合同の野馬追が始まりました。それが現在の「相馬野馬追」の原型となっています。
「相馬野馬追」は昭和53年5月22日に国の重要無形民俗文化財の指定を受けています。

 

行事のながれ

7月最終金曜日
明日からの祭りにそなえて、中村藩の総鎮守(そうちんじゅ)である妙見社(中村城跡内にあり、現在は相馬中村神社)で安全祈願祭(あんぜんきがんさい)が行われます。

7月最終土曜日 第1日 お繰り出し
三ノ丸(現在の中村字北町)の相馬家屋敷では、「毘沙門天(びしゃもんてん)の鎧(よろい)」といわれ、相馬家代々伝わる赤鎧を床の間に飾り、お神酒(みき)を上げます。総大将は武家のしきたりによる三献(さんこん)の儀で、このお神酒をいただきます

(三献の儀)

身支度(みじたく)を整えた総大将は、迎えの騎馬武者たちに守られて三ノ丸の屋敷から中村神社へ向かいます。
神社の境内(けいだい)では、総大将(そうだいしょう)を中心として宇多郷勢(うたごうぜい)の出陣式が行われ、それが終わると大手門(おおてもん)から繰り出し、市中を一巡(いちじゅん)し鹿島町へと向かいます。

総大将と宇多郷勢は、鹿島の北郷勢(きたごうぜい)と合流してさらに南相馬市原町区へ向かいます。
各郷からも南相馬市原町区の雲雀ヶ原(ひばりがはら)に入り、宵乗競馬(よいのりけいば)に参加します。

7月最終日曜日 第2日 行列・甲冑競馬・神旗争奪戦・お上がり
新田川原(にいだかわら)から中郷勢(なかごうぜい)を先頭に、小高郷(おだかごう)、標葉郷(しねはごう)、宇多郷、北郷の順で行列は祭場地(さいじょうち)の雲雀ヶ原へ向かいます。
総大将は、途中の本町の仮本陣(かりほんじん)で各郷の行列を閲兵(えっぺい)したあと、宇多郷の行列に加わります。
雲雀ヶ原では、むかしの野馬追にならって甲冑競馬(かっちゅうけいば)や神旗争奪戦(しんきそうだつせん)が行われます。
宇多郷勢は、争奪戦の半ばで下山し帰路につきます。そして馬場野でお上がりの行列を整え、中村神社に戻ります。

※閲兵…軍隊を整列させ司令官などが検閲をすること
※各郷…宇多郷(相馬市)、北郷(南相馬市鹿島区)、中郷(南相馬市原町区)、
       小高郷(南相馬市小高区)、標葉郷(浪江町、大熊町、双葉町)

7月最終月曜日 第3日 野馬懸
小高神社境内で野馬懸(のまがけ)が行われます。野馬懸とはお小人といわれる白装束(しろしょうぞく)の男が神馬(しんめ)を捕まえ、神前に奉納(ほうのう)する行事です。
野馬懸が終わると相馬野馬追の行事は全て終了となります。

 


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