御仕法の足跡

御仕法とは

導入と実際のようす

中村藩の御仕法の成果

御仕法の廃止と興復社

報徳の訓え

推進した主な人々

主な史跡

関係資料・参考文献

導入と実際のようす

御仕法の導入

御仕法掛名簿中村藩は、元禄・正徳・享保の盛時には最高17万5千俵余の米の収納があり、人口も約9万人に達しましたが、天明の飢饉後は、2万40俵、約3万6千人に激減しました。このため、藩では天明4年(1784)に幕府から5千両を借り入れ養育料の支給や、移民を引き入れることなどで回復に努めましたが、借金は30万両を越えてしまいました。

こうしたことから、文化14年(1817)より厳しい倹約令(いわゆる「文化の御厳法」)を出し、6万石の格式を1万石に切り詰めるなどの政策も実施しました。その後天保4年(1833)に大きな飢饉がおこり、餓死者こそ出しませんでしたが、藩財政は底をつき、厳法をさらに10年延長せざるをえない状況でした。そして弘化2年(1845)、窮乏の復興策として取り入れられたのが、「興国安民法」(御仕法)でした。

御仕法は、中村藩士で二宮尊徳の弟子となった富田高慶から、中村藩復興の良策案として家老草野正辰に進言があり、得心した草野家老は家老池田胤直らと藩論の統一をはかり、藩主に上申して導入されることになりました。

(写真:御仕法掛名簿)

御仕法の実際の様子

御仕法は、藩主相馬充胤の理解のもと、藩の一大事業として積極的に推進されました。また、二宮尊徳自身は相馬の地を訪れることはありませんでしたが、中村藩士で二宮尊徳の弟子であった富田高慶が、二宮尊徳の代理として全体の指導にあたりました。

御仕法は、さまざまな基礎調査を行い、村の状況、村民の生活の様子を明らかにし、分度を定め(村の過去何年かの税額平均値から生活の限度を定め)、弘化2年(1845)12月に城下に近い成田村(1日)、坪田村(4日)で始まり(発業し)ました。
成田村では、代官助役高野丹吾宅に村人一同が集まり、郡代野坂源太夫と宇多郷代官志賀乾が御仕法の趣意を説明し、富田高慶が御仕法発業の経過と内容を説明しました。そして、第一の作業である村内善行者表彰の入札(投票)を行いました。

発業後は、農民の労働意欲を高めて生産力をあげ、和の精神を尊重して連帯感を高めるためにいろいろな作業(事業)が継続して行われ、早い村は数年で復旧しました。復旧ができた村を「仕上げ村」といい、農民の借金を返させ、日課縄ないの積立金を倍額にして返し、新たに凶作時の備えをして、仕法を別の村に移していきました。

こうして御仕法は、弘化2年から明治4年(1872)の廃止までの27年間、藩領内226か村のうち101か村で施行し、うち55か村は完了、46か村は施行途中で打ち切られました。

御仕法発業までの基礎調査

村の田畑の総計・実際の耕作地・荒地・有税地・除地・戸数・人口・貧富の状況、各戸の家族数・男女老幼の別・労働非労働の別・所有地・自作地小作地の別・家畜の有無・借財など

御仕法実施中の継続事業

  • 投票によって善行者を表彰し、褒美としてお金、鍬、鎌などを与える
  • 投票によって屋根替えをしてやる
  • 投票によって村の模範になる人には家を造って与える
  • 孝子節婦の表彰
  • 困窮者への夫食米を与える
  • 無利息年賦金の貸付け
  • 新百姓取立ての助成(百姓の二男建て・入百姓)
  • 荒れ地の開墾奨励
  • 堤・用水堀・掛入堀などの新築・修理
  • 植林の奨励
  • 橋や道路の普請など