御仕法の足跡

御仕法とは

導入と実際のようす

中村藩の御仕法の成果

御仕法の廃止と興復社

報徳の訓え

推進した主な人々

主な史跡

関係資料・参考文献

推進した主な人々

二宮家の移住

慶応4年(明治1・1868)、尊徳の妻子は戊辰戦争の戦禍を避け、中村(相馬市)に移住しました。明治3年には中村藩の用意した石神村(原町市)の住宅に移り、尊親(尊徳の孫)が、北海道に移住する明治30年(1897)まで、ここに住みました。また、明治5年には冨田高慶も石神に移住して、直ぐ近所に住んでいました。

御仕法を推進した主な人々

○二宮尊徳 天明7年(1787)〜安政3年(1856)

金次郎。相模(神奈川県小田原市)の人。独特の思想により農村建て直しに尽力した農政家・思想家でその教えに基づく農村復興策は、「興国安民法」(二宮仕法・報徳仕法・御仕法)などと呼ばれました。二宮仕法は、文政6年(1823)の桜町(栃木県二宮町)仕法をはじめ各地で実施され、相馬中村藩でも導入して財政の再建に成功した。二宮仕法の考えは、明治以降の報徳社へとつながっていきました。

○相馬充胤 文政2年(1819)〜明治20年(1887)

相馬充胤相馬中村藩12代藩主(相馬家28代)。大膳亮(大夫)。御仕法を導入し、成功に導きました。

○慈隆 文化13年(1816)〜明治5年(1872)

もと日光浄土院住職。安政3年(1856)、中村藩に招かれ、政事の最高顧問として御仕法の推進を図り、戊辰戦争では、戦災を最小限に止めるよう藩の指導にあたりました。また、愛宕金蔵院に住まいし、学塾を開いて子弟の教育にも力を尽くしました。

○池田胤直 寛政3年(1791)〜安政2年(1855)

直常、八右衛門、図書。中村藩士。家老職郡代頭、勘定奉行。安政2年に、文政2年以来37か年の永勤を表し、特命により御一家格。御仕法の採用に力を尽くしました。

○草野正辰 安永1年(1772)〜弘化4年(1847)

孫四郎、主計、半右衛門。号鬼拉。俳名聞二。中村藩士、俳人。御勝手吟味役、郡代役、勘定奉行、家老。江戸家老として対外交渉にあたりました。御仕法の採用に力を尽くしました。

○熊川兵庫 文化10年(1813)〜慶応3年(1867)

易隆、胤隆、村田半左衛門とも。中村藩士。御用人郡代頭取徒士頭大目付兼帯、郡代家老職、家老職。藩政全般の指導。慶応1年御仕法施行20年限により功労者として表彰されました。また、蝦夷地石川・軍川開発の世話をしました。

○富田高慶 文化11年(1814)〜明治23年(1890)

富田高慶久助、弘道。中村藩士の子として生れた高慶は、江戸修学中の天保10年(1839)、荒廃した領内を復興するため尊徳の下に入門しました。やがて門人の筆頭となり、終生、尊徳に仕え、尊徳に代って中村藩の事業(御仕法)の指導しました。
また、尊徳の教えを世に広めるため「報徳記」や『報徳論』を著しました。

○齋藤高行 文政2年(1819)〜明治27年(1894)

v通称久米之助。晩年の一時期大原村(原町市)に隠遁し大原山人といいました。富田高慶の甥にあたり二宮四大門人の一人として御仕法の後半を高慶に代って指導しました。

○荒至重 文政9年(1826)〜明治42年(1909)

荒至重通称専八。和算家佐藤儀右衛門に学び、21歳のとき江戸に出、内田弥太郎観齋に師事して3年間算法修行ののち帰藩。嘉永3年(1850)二宮尊徳に随身。安政4年(1857)6月より北郷代官御仕法掛として数々の大規模水利事業を設計監督し完成させました。明治以後平町長(現いわき市)を勤めました。

○志賀三左衛門 文政10年(1828)〜明治39年(1906)

志賀三左衛門五太夫、直道。中村藩士。嘉永5年御仕法掛見習代官次席。安政1年二宮尊徳に随身。同3年御仕法掛中頭次席。同5年日光今市詰めとなり、妻子ともに日光役宅に住まいました。小説家志賀直哉の祖父。